2005年02月22日

梅原猛の「『セントレア』は似合わない」を読んで

先ほどメディア記事一覧にも引用したが、哲学者の梅原猛氏が「新市名・南セントレア市」問題についてコラムを書いている。

■「思うままに 梅原猛:新しい市の名称『セントレア』は似合わない」中日新聞夕刊)
私の故郷である愛知県知多郡南知多町が美浜町と合併して市になるという。
まず、あの梅原氏が南知多町出身とは全然知らなかった。梅原猛と言えば、哲学者、そして古代史の研究家としてあまりにも有名である。1999年に文化勲章を授与されている

「日本学」とも呼べる、日本人のアイデンティティーを非常に重視した著作が多く、現代の状況を危惧している。彼は京大出身で、立命館京都市立芸大(学長)、国際日本文化研究センター(所長)と、ずっと京都で活動されているから、てっきり京都出身の人なんだと思っていた。ちなみに、京都市名誉市民にも選ばれている。

読んでみて、あまりにも自分とこの地での体験や郷愁が似ているので驚いた。

野間町および河和町も南知多に位置し、私が子供の時にはこれらの南知多地区の七町村の小学校が参加する連合運動会が行われていた。
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どういうわけか二位を五メートルも離して一位になった。それは、優等生ではなかった私が小学校時代に経験した最高の栄誉であった。
彼は1925年(大正14年)生まれだから、小学校の頃と言えば昭和一桁〜11年くらいの頃だろう。旧七町村とは河和・野間・内海・豊浜・師崎・篠島・日間賀島である。

自分も、小学校での運動会、特に1年生の時のが忘れられない。自分も実際、徒競走で1位になって賞品をもらったのだ。ゴールテープを切ったときの喜びはいまでも忘れられない。鮮明に覚えている。賞品は、確か三菱鉛筆(1ダース入り一箱)とノートだったはず。
尾張には属しているものの名古屋などとは少し違った文化圏に属し、南知多の人は名古屋弁を使えない。
確かに、彼の地を離れて名古屋に行ったりすると、風景や時間の流れ以外に、文化的な違いや言葉の違いも感じる。氏も
そのように南知多の地は伊勢との間に船便があり、また三河とも関係が深い。
と書いているが、半島の先端で、伊勢湾・三河湾の両方にアクセスできる漁師町、そして農村として歴史を育んできた南知多地方は、「尾張商人」と呼ばれる名古屋とは明らかに違う気質を持つと思う。

知多弁については細かい言い回しはもう覚えていないが、この「知多弁講座」を読んでいくと、明らかに名古屋弁との差違を感じる。
語尾の「だらー」は三河以東伊豆まで分布している典型的な語尾で、名古屋人はほとんど使わないと思う。自分も美浜や南知多の人が「○○だらー」と三河のように言うので不思議に思ったことがあった。海を渡って三河と交流が盛んだった知多の方が、陸続きでも三河とはなかなか相容れない尾張・名古屋よりその言葉の影響を受けていた、ということだろう。

南山大の安田文吉教授も「尾張名古屋文化論」
尾張弁も名古屋弁の中と言えないこともないが、天白川を越えると知多弁、これも細かくは、東海市、知多市、半田市、南知多町では微妙に異なるし、蟹江町、一宮市、春日井市、犬山市でも皆、微妙に違う。岐阜まで行くともっと違う。地域文化とはこのようなものだ。これらを東京発の文化・ものの考え方でくくって解釈・把握しようとするから、大変な間違いが起こっている。
語っているように、そとから見ると「あの辺」と「名古屋」でいっしょくたにされがちだが、細分化していけば全然違う、というのは日本どこでも見られることだ。

前後するが、
南知多町は、知多半島の最南端にある師崎町、豊浜町、内海町に二つの島、篠島村と日間賀島が合併したものであり、南知多町と名付けられたのは当然である。しかし師崎町や豊浜町が漁村であるのに対し、内海町は農村であり、同じ農村であり今は合併して美浜町となっている野間町や河和町と合併する方が自然に思われた。野間町と河和町が合併したとき、両町がともにもつ美しい浜にちなんで美浜町と名付けられたと思われるが、美浜という地名はもともとなかったのである。
自分も、町の合併問題なので、とりあえず「故郷は美浜」と名乗っているが、実際に愛着があるのは「河和(こうわ)」という地名である。河和小中学校、河和駅、河和線、全て河和である。河和の家からどこかに行くときも「野間に行く」「内海に行く」「豊浜に行く」と全て旧七町村名か集落名で呼ぶことがほとんどだったと思う。「美浜」は(美浜町)役場の名前、くらいの認識しかなかったはずだ。逆に、子供心に「全部河和なのになんで役場だけ美浜なんだろう」と思っていたと思う。

もちろん、もし合併が成立してどんな名前になろうとも、地域の中ではこれまで通り、旧七町村・集落名が日常的に使われるだろう。

しかし、自治体名というのは極めて対外的なものである。町の外の人に向け使い、その人たちが記号として使う。それが「南セントレア市河和町」「南セントレア市日間賀島」ではあまりにも不自然だ。梅原氏の言う
美浜町と南知多町が合併できる新しい市が「南セントレア市」と名付けられねばならない理由はまったくない。美浜という地名がもともと当地になかったとすれば、本来南知多に属する美浜町と南知多町の合併後の市の名称には「南知多市」がもっとも適当ではなかろうか。
も、とてもうなずける。

地域の歴史・文化の面は新市名を考えるときの一面であり、それだけで判断することは出来ない。古いものに固執してばかりいても道を誤る。

しかし、歴史・文化は地域にとってかけがえのないものであり、非常に重要であることは言うまでもない。それは日々1枚1枚紙を重ねていくようなもので、今我々がやっていることは全て、過去を踏まえ未来への歴史・文化を形作っていくことだ。残すも壊すも我々次第だが、壊したものはもう元には戻らず、その行為は石に刻まれる

2月27日の住民投票は、この地域にとってそれほど重要なのだ、と思う。
私には故郷の田園情緒が懐かしく、故郷が市となることがいま少しピンとこない
自分には海、浜辺、みかん畑、学校などが主に思い浮かぶ。

でも、これだけこのブログで合併・新市名問題に取り組んでみても、今だに「市」になることはピンと来ない、のは全く同じ。

ですよねぇ、梅原先生。

taiyayama.jpg
河和小学校のタイヤ山。あの運動会を思い出す。
この付近で弁当食べたっけ



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合併するならこの新地名がいいと思う
posted by 故郷は美浜 at 01:57 | TrackBack(1) | 思い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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その内ユートピア市とか出て来るかも
Excerpt: ”平成の大合併”とも言われる全国規模の市町村合併に伴い、新たな市町村名が誕生している。その中には、愛知県の南セントレア市や千葉県の太平洋市の様に、一旦は新市名として決定しながらも、相応しくないという抗..
Weblog: ば○こう○ちの納得いかないコーナー
Tracked: 2005-02-23 05:34